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  • 2023.01.06

戦国武将から学ぶ戦略論

戦国武将から学ぶ戦略論

戦国武将の戦略論を学ぶ

長引くコロナ禍、ロシアによるウクライナ侵攻、急激な円安などにより経済の先行きの見とおしを立てることが容易でない状況にあります。そのようななかであっても、企業は事業の継続・拡大に向けた戦略を策定し、実行していかなければなりません。

戦国武将は先行きの見えない乱世において、家臣を率いながら近隣の敵国と戦い、領地を拡大していかなければなりませんでした。その意味で戦国武将と企業の社長はある意味同じ状況にあるといえます。

このような観点から、「戦国武将のリーダーシップを経営学視点で考える」と題する記事で織田信長のリーダーシップについて、以前にも取り上げました。戦国武将による戦略の成功と失敗は企業が戦略を立てるうえでも参考になります。そこで、今回は戦国武将の戦略の成功と失敗を取り上げ、企業経営の観点から分析してみたいと思います。(なお、以下では必ずしも通説とはいいがたい点も含まれていますが、本稿の趣旨に照らしご了解ください。)

武田勝頼から事業承継を考える

武田信玄(以下「信玄」といいます。)を聞いたことがない人は少ないでしょう。信玄は、甲斐の名門武田家の当主として、甲斐を中心に信濃・駿河へと領土を拡大した、戦国時代屈指の大大名といっても過言ではありません。信玄が残した

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

という名言は企業の管理職研修でもしばしば取り上げられるほどで、家臣団のマネジメントもきわめて巧みであったともいわれています。
しかし、信玄が死去してからわずか9年後、武田家は天目山の戦いにて滅亡します。なぜ信玄が死去してからすぐに武田家は滅亡してしまったのでしょうか。

信玄の後継者だったのは四男の武田勝頼(以下「勝頼」といいます。)です。勝頼は、長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗したことなどから、武田家が滅亡したのは勝頼の能力が低かったからだとの考えがあります。しかし、実は武田家の支配地域がもっとも大きかったのは勝頼のときで、信玄でも攻略することができなかった城を攻略するなどしており、ただちに勝頼が無能であったとも言い難いと思われます。では滅亡の原因はどのようなものであったのでしょうか。

実は、勝頼は当初は信玄の後継者となることが想定されておらず、信濃の名門諏訪家を継いでいました(このため、諏訪勝頼と名乗っていました。)。ところが、信玄が長男との間に争いが生じたことから、急遽武田家に呼び戻されて後継者になったのです。さらに、信玄の正式な後継者は勝頼ではなく、勝頼の子の武田信勝で、勝頼はあくまで武田信勝が成人するまでの間の代理的なものと位置づけられていたのです。そのため、勝頼の求心力自体それほど強いものではなく、木曽義昌、穴山梅雪、小山田信繁等の有力な一門衆に次々と裏切られ、滅亡への道を歩んでいったのです。

中小企業庁の事業承継ガイドラインには、

①「後継者に、事業を受け継ぐ者としての自覚を持たせ、事業承継に向けて経営者と二人三脚で準備を進めてもらう必要がある。そのためにも、早い段階から後継者との対話を重ね、事業の実態とともに、現経営者の想いや経営理念を共有していくプロセスが重要である」(中小企業庁『事業承継ガイドライン(第3版)』54頁)、

②「事業承継計画は、後継者や親族と共同で、取引先や従業員、取引金融機関等との関係を念頭に置いて策定し、策定後は、これらの関係者と共有しておくことが望ましい。こうすることで、関係者の協力も得られやすく、関係者との信頼関係維持にも資するものである」(同42頁)

との記載があります。

武田家が信玄死去後すぐに滅亡してしまったのは、まさに事業承継を適切に行うことができず、城や石垣などのように重要であると考えていた「ヒト」を失ってしまったからではないでしょうか。
信玄が事業承継ガイドラインのとおり早期に後継者を確定し、後継者が一門衆と家臣とともに思いを共有していき、信頼関係を構築していくことができていたならば、武田家は滅亡しなかったかもしれません。その意味で、武田家から事業承継の重要性・困難性を学ぶことができるのではないでしょうか。

一向一揆から中小企業の戦略を考える

戦国武将から学ぶ戦略論

織田信長(以下「信長」といいます。)や徳川家康(以下「家康」といいます。)がもっとも苦戦した戦国武将のうちの一人に本願寺光佐がいます。本願寺光佐という武将は聞いたことがないという方もいるかもしれません。厳密にいえば本願寺光佐は、大坂本願寺の住職であり、浄土真宗の僧侶ですので、戦国武将ということは必ずしも適切ではないかもしれません。

しかし、本願寺光佐は、大坂(当時は「大阪」ではなく「大坂」と書いていました。)の石山本願寺を拠点として上洛を果たし、圧倒的な権力を手に入れた信長が仏敵であるとして、10年にわたり徹底抗戦したことで知られており、事実上戦国武将のような存在であったといえます。また、徳川家康もその所領の三河で浄土真宗の門徒たちが起こした一揆に相当の苦労を強いられました(これらを「一向一揆」といいます。)。

そもそも、「一揆」とは、民衆による暴動を意味するものですので、信長や家康といった強大な権力を持つプロの武士集団からすれば、軍事力等において一向一揆を圧倒していたはずです。にもかかわらず、なぜこれらの一向一揆は信長や家康を悩ませるほどの戦いを展開することができたのでしょうか。

まず、一向一揆の士気・結束力が非常に高いことがあります。一向一揆は宗教という強固なつながりのもと、『進者往生極楽・退者無間地獄』(進めば極楽、逃げたら地獄)をスローガンとして、死を恐れず、仏敵とされた信長や家康に立ち向かっていくことができたのです。また、一向一揆の人の大半が、戦闘地の近くの寺に住んでいる農民や地侍たちでした。このため、柔軟な人員の確保が可能なうえ、地域の地形や物資の調達ルート等について独自の知見・ノウハウを持って戦いに臨むことができたのです。

一向一揆は、兵力等の純粋な意味での目に見える資源は乏しかったかもしれません。しかし、一向一揆は、仏敵である信長・家康という明確なターゲティングのもと、地域密着力等の見えない資源を活用し、小規模ながらの機動性・柔軟性を活用しつつ、宗教的理念のもと一致団結しました。このようにして、一向一揆は、強大な敵に対し優位性を確保しようとしていたのではないでしょうか。

この一向一揆の事例からすれば、明確なターゲティングと確固たる理念のもと機動性・柔軟性・地域密着等をキーワードとした戦略をとることで、小規模であることをむしろ強みに変えていくことができるように思われます。すなわち、中小企業であっても、大企業に対して競争優位性を確保することができうるといえるのではないでしょうか。

戦国武将のエピソードは経営戦略を考える事例の宝庫

本稿では、戦国武将の2つの事例をあげて戦略論的観点から分析を加えていきました。戦国武将について、小説などを通じてさまざまなエピソードを知ることができます。これらのエピソードは読み物としても十分に面白いものなのですが、「なぜそうなのか」、「戦略的にはどう分析できるのか」を考えてみると経営的な思考方法を身に付けるための良いトレーニングになるかもしれません。

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