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実例から学ぶ! 中小企業マーケティングの新鉄則(第47回)

危機に陥ったときの支えは?(澤の屋)

危機に陥ったときの支えは?(澤の屋)

新型コロナウイルスの感染拡大で、経営が大変な状況となった方々も多いとお察しします。多岐にわたる業界が深刻な事態に直面したと思いますが、なかでも厳しいといわれている業界のひとつが観光関連ですね。

東京の下町である谷中に「澤の屋」という小さな家族旅館があります。昨年(2019年)に創業70周年を迎えた一軒です。
今回は、この「澤の屋」が、これまで幾たびも襲われた危機をどう乗り越えてきたのか、また、今どう乗り越えようとしているか、そのあたりをお伝えしたいと思います。

「澤の屋」は創業から高度経済成長期にかけて、ビジネス客や修学旅行の客で賑わっていました。連日、宿泊客で部屋が埋まり、経営は順調だったそうです。ところが……。
1970年を境に、状況は一変しました。館主は当時のことをこう振り返ります。

「一部屋にまとまって何人もが一緒に宿泊する時代ではなくなり始めたんです」

どういうことか。かつてはビジネスの出張客なら上司と部下が同部屋というのが普通だった。修学旅行でいえば一部屋に10人以上というのも当たり前。それが、1人一部屋というプライバシー重視の形に変容して行ったのですね。
背景にあるのは、ビジネスホテルの急増です。

「ビジネスのお客さんは、ビジネスホテルへと、あっという間に移っていきました」

しかも、この「澤の屋」にはもうひとつ、泣きどころがありました。それは立地です。1960年代後半に、宿の近くを走っていた都電が廃線となり、交通の便がたちまち悪くなったのです。ターミナル駅である上野駅から歩くと30分はかかります。

「営業をかけてもお客さんは戻らなかったですし、そのうち、電話料金の支払いにも苦労するほどでした。宿にとっては、予約を受ける電話がつながらないと死活問題ですから、本当に大変でした」

周囲からは、「家族旅館は、もう生き延びられないだろう」との声も聞かれたといいます。家族で経営しているような小さな宿は、新しい時代にはもう合わない、という指摘ですね。
では「澤の屋」はどうしたのか。

「外国人観光客を迎える旅館として、生まれ変わろうと決断しました」

外国人観光客から絶大な人気

危機に陥ったときの支えは?(澤の屋)

それが1980年代前半の話です。でも、すぐに実行に移せたわけではなかった。

「知り合いの旅館から『日本人のお客さんが来ないなら、外国人を受け入れなさい』とアドバイスをもらいましたけれど、1年間悩みましたね」

それはそうでしょう。1980年代前半の当時は、インバウンドという言葉も一般化していないですし、外国人観光客を広く受け入れる土壌などさほどなかったと言っていいでしょう。そしてなにより……。

「日本のお客さんがそっぽを向く客室に、外国から来るお客さんが泊まるとは、到底思えなかったんです」

でも、そのうち文字どおり宿泊客ゼロという日が続き、悠長なことは言っていられなくなりました。そして知人の旅館を見に行きます。

「そしたら、トイレのない部屋にも外国人客は泊まっていました。宿とお客さんが交わす言葉も『We have a room,OK』くらい簡単なもの。これでいいんだ、と判断がつきましたね」

それ以来、「澤の屋」は、外国人観光客がひっきりなしに訪れる超人気の宿となりました。昨年(2019年)でいいますと、外国人客の比率が87%。さらにそのうちの90%は個人旅行客(ツアーではなく、みずからの手で航空券や宿などを予約する客)でした。これまでの累計では、92カ国、のべ19万人以上が、この「澤の屋」を訪れています。

しかも、興味深い話がありました。わずか12室で宿泊料金も低廉な一軒ですから、てっきりバックパッカーのようなお客さんが訪れているのかと思いきや、そうでもないらしい。この宿に滞在する外国人客を調べたところ、平均年収は日本円にして1100万円で、なかには年収1億円という人もいたそう。

「ビジネスのときはきっと高級シティホテルに宿泊されるのでしょう。うちに泊まるときは、個人でくつろぐことを目的にいらっしゃるようです」

でも、ここまで到達するまでには、宿の館主として戸惑うこともあったそうです。特に最初のころは……。

習慣の違いをどう踏まえたか

危機に陥ったときの支えは?(澤の屋)

「外国人客を迎えようと考え始めた1980年代前半のころ、最初は『一番の障害になるのは言葉だろうな』と考えていました」

実際はどうだったのでしょう。

「むしろ言葉は、障害には一番なりませんでしたね。実際に始めて、それがわかりました」

館主は、当時中学生だった息子が持っていた英語の教科書を片手に、文章を書いて丸暗記したそうです。それで言葉の面はもう事足りた。

92カ国からいらっしゃるお客さんにすれば、こんな小さな宿が現地の言葉を使いこなせているとは、ハナから考えていません。言葉よりも『ああ、この宿は自分を歓迎してくれているな』ということが伝われば、それで大丈夫でした」

現在では、高機能な音声翻訳機がありますね(「ポケトーク」などがそうです)。「澤の屋」の館主も一台所有しているそうですが、実際にはまず使っていないそうです。

では、一番大変だったのは何だったのでしょうか。

「それはもう、文化と習慣の違いです」

トイレの使い方、風呂場の使い方ひとつ、お客さんの行動に戸惑ったと聞きました。でも……。

「途中でだんだんとわかってきました。『お客さんには悪気はない』んです」

自分の国で生活するなかでごく自然にやっている振る舞いを、ここでもやっているだけ、と気付いた瞬間に、気持ちがラクになったそうです。

「良い悪い、ではないんだと……。だから、折り合いをつけるのが必要、と考えました」

私たち日本人も、海外のホテルや飲食店で、現地の人から見ると不自然な行動をとることがありますね。要はそれと同じ、と館主は考えることができたそうです。
あとは、これだけはやめてほしいという部分について説明すればよい……そういうことなんですね。

何を見せ、何を大事に?

危機に陥ったときの支えは?(澤の屋)

ここからは、大きな迷いはありませんでした。

「ここにあるものを、あるがままに……。そう考えました」

海外からのお客さんを接遇するからといって、特別のことを成すのは逆効果だという判断です。外国人観光客は、この宿に、ありのままの日本を求めてやってくるわけです。ふすまから漏れる柔らかな光、床の間のしつらい……。だから、取り立てて無理な趣向を凝らす必要はむしろない、という考えですね。

あるとき、館主はこんな経験もしたそうです。
館主の孫が幼かったころ、毎朝、泣きながら幼稚園の送迎バスに乗っていた。その光景に、ある外国人客は「あれが『日本の旅のハイライトだった』」とまで言って微笑んだといいます。

「ああ、このままでいいんだ。家族旅館のままで、と確信した瞬間でした」

では、特別にやったことは皆無だったのでしょうか。

「いえ、うちが普通にやっていたものを、お客さんに披露するようには心がけました」

例えば、正月の行事、節分の豆まき、5月には菖蒲湯、8月にはお盆の送り火……。お金をかけず、「happyになれる風習」を、年中の折々に触れてお客さんに体験してもらっているそうです。

さあ、ここからです。実は私、今回綴っている原稿で皆さんに最もお伝えしたいことは、この後の話なんです。
まず、その前段から書いていきましょう。

「澤の屋」は1980年代前半に外国人観光客を迎え入れるにあたって、ひとつの決断をしています。それは夕食提供の廃止。板前さんを雇用して食材を毎日仕入れても、食べないお客さんが多かったからです。外国人客は「街に出る」んですね。

夕食提供をやめた代わり、館主は何をしたか。

ここ谷中の近隣の飲食店に、声をかけて回りました

うちの外国人客が行くかもしれないから、ぜひに歓迎してもらえないだろうか。そのためには店先に小さい文字でいいので「Welcome」と書いてもらえないか。また、メニューを少しでもわかりやすいものにしてもらえないだろうか……

ただ単に、周辺の飲食店を外国人客に紹介するというだけでなく、飲食店の側にも、外国人に受け入れられやすい手立てを講じてもらおうと、「澤の屋」の館主は奔走したわけですね。

それは飲食店に限った話ではなくて、物販などの小売店についてもそうでした。
その結果、谷中近辺のお店たちは、1980年代にはすでに、外国人「Welcome」の空気が醸成されていたというわけなんですね。

館主はいいます。

「ずっと昔は『旅館には、地元の町と関係を紡いでいなくても、お客がやってくるから問題ない』という考えもありました。でも私はそうは思わなかった。特に外国人を迎え入れてからは、『町あっての旅館』と考え、周囲のお店、周囲の人たちとの連携を密にするように動きました」

実際、外国人のリピート客のなかには、いつも近隣の理髪店に予約の電話を入れるというケースすらあるそうです。

「今や、うちに泊まりに来る外国人客のなかには、町の人に会いに来るのが目当てという人もいるくらいです」

地元のおじいさんと盆栽のことについて長話する外国人客、あるいは家に招かれて朝食をごちそうになった外国人客までいるらしい。

今、地元の人が訪れる理由

危機に陥ったときの支えは?(澤の屋)

話を冒頭に戻します。この春以降のコロナ禍によって「澤の屋」は大変な状況なのではないでしょうか。インバウンドが当面見込めないだけに、この宿の客層を考えると、大打撃どころか存亡の危機に瀕していると思えますが……。

「実際、そうですね。3月終わりから4月アタマにかけて、宿泊客ゼロという日が続きました」

それまで満室続きの予約だったのが、一気にキャンセルとなったんです。
では、どうしたのか。

「うちのお風呂は2つあって、檜の浴槽、陶器の浴槽、どちらも貸切制です。なので、これを利用して、日帰りの貸切湯を始めようと考えました」

さらには、部屋も空いているのだからと、リモートワークにも使えるよう、日帰り客室利用も受け付けるようにしました。お風呂も使えて、9時—19時で3300円と、かなり値頃です。
すると、どうなったかといいますと……。

他ならぬ、地元のお客さんがどんどん来てくださっているんです

つまりはこういうことですね。「あの『澤の屋』がコロナ禍で外国人客が来られず、大変なことになっているらしい」「だったら今度は自分たちが行ってやろう」。

1980年代前半から、「澤の屋」は地元の店々と連携を取ろうと頑張ってきました。そして周囲の人たちはそれに応えてくれた。
この関係があったからこそ、この局面で、周囲の人がこの宿を少しでも支えようと動いたのですね。私、とても大切な話であると思いました。このコロナ禍では「分かち合い」がひとつのキーワードになっていると、私は考えます。飲食店の支援サービスなど、まさにこう事例でしょう。この「澤の屋」をめぐる話は、そうした分かち合いの関係を紡ぐには、一朝一夕ではなく、平時から信頼関係を有していることが大事と、改めて感じたのです。

いま、「澤の屋」には、来年の宿泊予約が海外から少しずつですが届いているそうです。館主は、あと1年は宿を続けることを決断したと聞きました。海外からの予約、そして何より地元からの支え……。それが決断するにあたっての大きな背景にあるのは間違いありませんね。

北村 森

北村 森

商品ジャーナリスト
サイバー大学IT総合学部教授
(元・日経トレンディ編集長)

PROFILE

富山県出身。慶応義塾大学法学部政治学科卒業。

月刊誌「日経トレンディ」編集長を経て、2008年に独立。
以来、商品ジャーナリストとして活動。製品・サービスの評価、消費トレンドの分析、地方自治体や商工団体と連携する形で地域おこしのアドバイザー業務に携わっている。
2015~2016年、第1回「だれかのために考えた発明品アイデアプロジェクト」(東大阪ブランド推進機構)の総監修を担当し、全国からの反響を呼ぶ。
著作である『途中下車』は、2014年にNHK総合テレビにてドラマ化された。
2017年にはサイバー大学IT総合学部教授に就任(地域マーケティング論)。

中日新聞/東京新聞「北村森のモノめぐり」、婦人公論「女の気になるキーワード」、家電批評「北村森のヒット商品虎の穴」、FCC REVIEW「旗を掲げる! 地方企業の商機」などの連載コラム執筆に携わるほか、NHKラジオ第1「Nらじ」など、テレビ・ラジオ番組でのコメンテーター、ゲスト出演多数。

日本マーケティング協会 マスターコース講師(マーケティング・コミュニケーション)
MM総研大賞 審査委員
富山県 推奨とやまブランド ものづくり部会 審査委員
特許庁 地域団体商標広報企画 ワーキンググループ委員

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