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実例から学ぶ! 中小企業マーケティングの新鉄則(第92回) 

成長したのは「続けた」から!(株式会社友桝飲料)

成長したのは「続けた」から!(株式会社友桝飲料)

「ブランドマネジメント」とは「約束」だ、という話を、この連載の第10回で綴っていましたね。
ブランドマネジメントは商品の信頼感や知名度を維持しつつも高めていく行為。その遂行によってブランド価値を上昇させるというものです。でもまあ、そんな理屈っぽい表現をされても、正直ちょっとわかりづらい。もっと簡単かつ端的に表現するなら「約束」の2文字ですむ、と私は考えています。

取引先や消費者に対して「この商品を購入してくれたら、こんな変化をもたらしますよ」といった約束をちゃんと掲げて、それだけで終わらず、その約束を守りきるための取り組みを続けること。これがブランドマネジメントの大事なところ、といって差し支えないでしょう。

第10回で綴った「バーミキュラ」の事例では、まず「約束」を明言したうえで、それを果たすための仕事を抜かりなく続けてきた、とお伝えしました。そうした意味で、現在でも参考になる話と思っています。で、今回、また別の事例についてもお伝えしましょう。「約束を掲げ、それを果たす」という点において「バーミキュラ」と同様であり、しかも、企業存亡の危機から一転、急成長を遂げたというところも共通点です。

ページ冒頭の画像に写した商品、どこかでご覧になったり、その名を耳にしたりしたことがあるかと思います。「こどもびいる」といいます。「こどもだって 飲まなきゃやってらんねーよ。」という鮮烈なキャッチコピーで、2000年代半ばに大ブレイク。今も売れています。中身は、リンゴ風味の炭酸飲料。それをビールに見立てたという痛快な商品です。

販売しているのは、佐賀県小城市に本社のある友桝飲料です。創業は1902(明治35)年といいますから、120年続いている立派な老舗ですね。ただし、2000年ごろまでは地方のごくちいさな飲料メーカーでした。そんな同社が2000年代半ばに「こどもびいる」で一躍脚光を浴びました。

では今回のテーマは、この「こどもびいる」なのか。もちろん、この商品が話のなかで大事な部分とはなりますが、より詳しくお話ししたいのは、「こどもびいる」をはじめとする同社の商品群全体をめぐる取り組みに関してなんです。

20年間で、売上高50倍に

成長したのは「続けた」から!(株式会社友桝飲料)

この友桝飲料、2000年の時点での売上高は、税込みで2億4000万円ほど。従業員は約20人でした。それが2021年には売上高が税別で118億円。つまり、20年間で50倍に伸びています。現在の従業員数は約170人。佐賀だけでなく、本州に2つの生産工場も有するほどになりました。

同社の急成長について、私は極めて稀有な事例と感じています。飲料業界は、大手と準大手が国内市場の90%近くを長年占めていますからね。そのため、地方のちいさな飲料メーカーは存在感をなかなか放てないだけでなく、流通・小売からの厳しい値下げ要請にも直面し続けているわけです。
大手飲料メーカーがひしめく状況のもとで、まさに間隙を突くような格好で、友桝飲料は目を見張るような成果を挙げています。いったい、なにがあったのか。説明していきましょう。小城市を訪れて、社長に聞いてきました。

結論を先に言ってしまえば、友桝飲料が急伸長を遂げた大きな要因は、2000年代初めごろのODM(Original Design Manufacturing)事業の立ち上げにありました。
よく聞くOEMOriginal Equipment Manufacturing)は、基本的にはブランドを有する取引先企業の仕様書に従って商品を製造する形態を指しますね(OEMメーカーからの商品提案という形もありますけれど)。これに対してODMは、製造にとどまらず、商品の企画段階から深く協業して、その仕様設計だけではなく、マーケティング戦略まで踏み込んだ取り組みとなることもあります。友桝飲料が手がけるODM事業はまさにそれです。

同社では現在、全社の売り上げのうち、OEMODMが占める割合は5060%程度。自社ブランド商品が4050%と聞きました。おそらくODM事業で友桝飲料の認知度が高まったことが、自社ブランド商品の売り上げ増にも寄与しているのでしょう。
さあ、ここからが社長の話です。友桝飲料の4代目となる社長は、2000年、20代の若さで同社を継ぎました。そしてすぐさま、このODM事業に打って出ます。それはなぜ?

「これをやるより、ほかに手立てがなかったからです」

2000年当時、24000万円だった同社の売上高のうち、以前から請け負っていたOEM事業の占める比率は1020%程度にすぎなかったそうです。

単なるODMではない

成長したのは「続けた」から!(株式会社友桝飲料)

「単なるOEMは、当時からよそのメーカーもやっていました。かといって、自社ブランド商品の展開だけに活路を見いだすこともしづらい状況です」

そう考えると、地方の中小飲料メーカーには八方ふさがりといってもいいような局面だったのですね。では社長はここからどういう一歩を踏み出したのでしょう。

「ただODM事業を始めるというのでは意義がありません」

社長が始めようと決断したのは……。

「企業にとって『最後の駆け込み寺』となるODMです」

どういうことか。この当時、OEMにせよODMにせよ、メーカー側が製造を引き受けるのは最低でも4万本程度のオーダーからだったらしい。それ以下の本数になると、製造するのに手間ばかりがかかるので、多くのメーカーはまず断っていたようです。

それを友桝飲料では、わずか2400本、オーダーの内容によってはその10分の1の数でも注文に応じることに決めたといいます。
つまり、「よそで断られたような小さなロットでも、友桝飲料は応じます。そして開発後のマーケティングも支えます」というのが、同社が掲げた「約束」だったのですね。

でも、ですよ。多くのメーカーは、そうした小ロットでは商売にならないと踏んで断ってきたわけですね。社業を取り巻く環境がいくら厳しかったといっても、こんなわずかの本数に応じるのは、ある意味で無謀な判断だったとはいえませんか。

「駆け込み寺」の意味と意義

成長したのは「続けた」から!(株式会社友桝飲料)

社長はいいます。

「ほかのメーカーから製造を断られた企業にすると、どんなに面白い商品を発売しようと思っても、もう方法はないわけです。それが、ウチに駆け込んでくれたら製造に応じる。その企業は喜んでくれます」

確かにそうですけれど、採算は合うのですか。

「大きな利益を生むとは決していえないまでも、そもそもODMとは工場の設備が空いているタイミングで製造するものです。社員の手間こそかかりますが、そもそも赤字が膨らむという仕事ではありません」

こうした考え方こそが同社のODM事業の原点であり、いまもなんら変わらない姿勢とのことです。

「ウチが『NO』といった時点で、その商品は世に出なくなる。だったらウチと一緒にやりましょう、と……

さらに社長はこうも力説しました。

これは、100年以上続いている会社の使命と捉えています

同社のOEM事業は、2000年代の当初は年間でわずか1件程度でした。それが2003年をすぎたあたりから年間34件となり、現在では年間100150件を数えるほどになっています。
そのきっかけとなったのが、冒頭で触れた「こどもびいる」の大ブレイクでした。

好機を見逃さなかった

成長したのは「続けた」から!(株式会社友桝飲料)

友桝飲料のある佐賀のとなり、福岡にある、もんじゃ焼き専門の居酒屋の店主は、1998年にオープンしてしばらく経ったころから、訪れる家族客に楽しんでもらうため、知恵を絞りました。乾杯の折に子どもも楽しめるように、炭酸飲料の瓶のラベルを手作業で自作のものに貼り替えて「こどもビール」(当時の表記)としてメニューに加えていました。

それが面白い評判を呼び、「こどもビール」の注文があまりに多くなった。これではラベルの貼り替え作業が間に合わない……。
そこで店主は、友桝飲料に連絡したといいます。「炭酸飲料の中身と瓶はそのままで、ラベルだけ貼り替えたのをつくってもらえませんか」と。

店主によると、こうしたオリジナル飲料の製造は、やはり何万本、何十万本という単位でないとメーカーに受けてもらえなかったようです。実際、最初に交渉を試みたメーカーからは、あまりにも小ロットのため怒られたほどだったそう。ほかにも、大手メーカーが手がけていないような商品など売れるはずがない、と返された場面があったと聞きます。
まさに最後の駆け込み寺が友桝飲料でした。

友桝飲料の社長にいわせると、炭酸飲料のラベルだけを貼り替えてほしいという依頼にはさすがにちょっと驚いたそうです。でも、すぐに応じた。それどころか、少し経った後に中身の改良すら提案したそうです。

「せっかくの話ですからね。もんじゃ焼きに合うような後味にして、しかも泡がちゃんと立つように、と……」

この「こどもびいる」は2003年に発売となり、2005年には食品関連の見本市に出展。そこからたちまち人気に火がついて、大ブームを巻き起こします。
社長はこうもいいます。

ODM事業を『駆け込み寺になろう』と最初に決めたからこそ、もんじゃ焼き居酒屋の店主から連絡を受けたときに躊躇なく引き受けることができました」

そこがやはり大事なポイントだったのですね。そして「こどもびいる」のブレイクによって、同社のODM事業の評判は業界内外に知れわたり、現在に至るというわけです。
飲料業界のもうほぼすべての企業が断っていた極小ロットの製造受託……。そこに踏み込んだからこそ、「こどもびいる」をめぐる好機を逃さなかった。さらには、その「こどもびいる」が次のODM案件をぐいぐいと引き寄せる存在になった。そういう話ですね。

新商品開発数が「業界一」に

成長したのは「続けた」から!(株式会社友桝飲料)

ここで実に興味深い数字をお伝えします。友桝飲料では現在、年間100150件ものODM案件に携わっていると綴りました。この数字を積み重ねてゆくと……
2001年から2021年2月までの累計では、自社ブランド商品とODM商品を合わせた新商品開発数は、約1450アイテムにのぼるといいます。これは名だたる大手メーカーを凌ぐ、業界日本一の数字だそうです。

「小ロットのODMを引き受け始めた最初のころは利益幅が少なかったのですが、こうして件数が増えてくると、当然ですが、ノウハウの蓄積を果たせます。生産性は上がりますから、経営にも十二分に寄与する事業になっています」

つまりは……。

「『続けた』ことが、ウチが成長できた最大の理由です」

もしもODM事業を3年、5年で諦めていたら、大手メーカーによる寡占化が顕著なこの業界にあって、20年間で売上高50倍への成長はまず見込めなかったでしょう。最初の段階で「業界の常識(小ロットの製造受託は商いにならない)を疑ってかかった」ことが極めて大きな要素ではありますが、それと同時に「続けた」ことが重要だったのですね。続けたからこそ、駆け込み寺としての存在感を放つまでとなり、そしてノウハウを集積するこができた。
最後に社長はこう語りました。

中小企業は『勝てる場所で戦う』のが原則だと思います。たとえその場所に、ほかには誰も戦いたがる人がいなかったとしても、そこを選べば『敵はいない』んですよ

友桝飲料は、局地戦に挑んだだけでなく、その戦いとは「小ロット製造の受け入れ先に恵まれずに思い悩む企業を救う」ものでもありましたね。繰り返しになりますが、その原点を貫いたこともまた忘れてはならないと思います。

北村 森

北村 森

商品ジャーナリスト
サイバー大学IT総合学部教授
(元・日経トレンディ編集長)

PROFILE

富山県出身。慶応義塾大学法学部政治学科卒業。

月刊誌「日経トレンディ」編集長を経て、2008年に独立。
以来、商品ジャーナリストとして活動。製品・サービスの評価、消費トレンドの分
析、地方自治体や商工団体と連携する形で地域おこしのアドバイザー業務に携わっ
ている。
2015~2016年、第1回「だれかのために考えた発明品アイデアプロジェクト」
(東大阪ブランド推進機構)の総監修を担当し、全国からの反響を呼ぶ。
著作である『途中下車』は、2014年にNHK総合テレビにてドラマ化された。
2017年にはサイバー大学IT総合学部教授に就任(地域マーケティング論)。

中日新聞/東京新聞「北村森のモノめぐり」、NTT東日本「経営力向上ラボ」、
家電批評「北村森のヒット商品虎の穴」、FCC REVIEW「旗を掲げる! 地
方企業の商機」などの連載コラム執筆に携わるほか、NHKラジオ第1「Nらじ」な
ど、テレビ・ラジオ番組でのコメンテーター、ゲスト出演多数。

ANA国内線「北村森のふか堀り」監修

経済産業省 北海道経済産業局 地域ブランド創出支援事業 チームリーダー
特許庁 地域団体商標広報企画 ワーキンググループ委員
富山県 推奨とやまブランド ものづくり部会 審査委員
日本マーケティング協会 マスターコース講師(マーケティング・コミュニケーション)

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