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  • 2021.03.19

戦国武将のリーダーシップを経営学視点で考える

戦国武将のリーダーシップを経営学視点で考える

戦国武将からリーダーシップを学ぶ

戦国武将は先行きの見えない乱世において、家臣を率いながら近隣の敵国と戦い領地を拡大していかなければなりませんでした。他方、企業の社長もまた不確実性の高い市場において、部下を率いながら競合する企業との競争を通じて、優位性を確保していかなければなりません。その意味で戦国武将と企業の社長は非常に似たような立場に置かれているといえます。

そこで、今回はもっとも有名な戦国武将である織田信長(以下単に「信長」といいます。)を取り上げ、信長がどのようなリーダーシップを発揮していたのかを経営学的な観点から分析してみたいと思います。なお、以下の信長に関する逸話等のなかには、必ずしも定説とは言い難い部分も含まれていますが、あくまでリーダーシップを学ぶという本稿の趣旨からご容赦ください。

「天下布武」という明確な目標の設定

リーダーシップにおいて、組織のなかで受け入れられるような目標を設定することが不可欠となります。
信長は「天下布武」という理想を掲げ、家臣を動かしていきました。「天下布武」とは「天下に武を布(し)く」、すなわち、混乱した日本を武家である自分が統一するということを意味します(諸説あります。)。

もともと「天下布武」は、信長が書状を書く際に用いた花押(かおう。現在の印鑑のようなものです。)でした。信長がこの「天下布武」という花押を積極的に用いるようになったのは、1567年に美濃を攻略し岐阜と改名したころでした。信長は、美濃を攻略した後、足利義昭を将軍に擁立して上洛を果たします。
信長が上洛し天下統一への足掛かりができようとしていた、まさにそのときに「天下布武」という目標を設定したのです。天下統一が現実味を帯びてきた状況下で設定されたことで、家臣にも受け入れられるものとなったのだと思います。

組織文化の変革を行うための行動

組織を構成する者の態度や意識を変化させる際にもリーダーシップが必要です。

信長が美濃を攻略する少し前の1560年、桶狭間の戦いが起こりました。桶狭間の戦いとは、当時尾張の小さな大名にすぎなかった信長が、大軍を率いた今川義元を奇襲により打ち果たしたことで知られています。この桶狭間の戦いののちに行われた論功行賞(現在の人事評価のようなものです。)の際、信長はある行動に出ます。

当時、戦いのなかで最も評価されたのは、敵方の武将を討ち取った者でした。当時は戦(いくさ)の時代ですから、当然といえば当然かもしれません。桶狭間の戦いでは毛利新介という武将が今川義元を討ち取ったとされています。ところがその毛利新介よりも評価された武将がいました。簗田政綱という武将です。簗田政綱は、今川義元が桶狭間で本陣を構えていたことを信長に報告したとされる武将です。これまでの考えと大きく異なる評価基準におそらく当時の多くの家臣が驚いたと思われます。しかし、そこに信長のリーダーシップを垣間見ることができるのです。

桶狭間以前、織田家では「武功をあげる=武将を討ち取る」ことが最も重視される組織文化でした。しかし信長は、毛利新介よりも簗田政綱を評価することで「これからは武功ではなく情報を得たものこそが評価される」という新たな評価指標を打ち出したのです。この新しい評価指標により、家臣の行動が変化し、新しい組織文化が醸成されていきました。

信長は組織文化を変えるために、強いリーダーシップで論功行賞の評価基準を変えたと言えるでしょう。

経営学的な観点から本能寺の変を考える

1582年、信長は、明智光秀(以下単に「光秀」といいます。)の謀反によりその生涯を終えます。いわゆる本能寺の変です。光秀がなぜ謀反を起こしたのかは諸説があり、未だに謎とされています。信長が光秀に命じた丹波国の攻略と光秀の母親について取り上げ、本能寺の変が起きた理由を経営学的な観点から考えていきたいと思います。

1575年、信長は光秀に対し丹波国の攻略を命じます。しかし光秀にとって、丹波国の攻略は容易ではありませんでした。敵方の波多野秀治と波多野秀尚の兄弟(以下「波多野兄弟」といいます。)の強固な抵抗にあったからです。そこで光秀は波多野兄弟に対し、降伏すれば丹波国の領地と家の存続を保証することを約束します。そして光秀は自らの母親であるお牧の方を人質として波多野兄弟に差し出しました。人質を確保できたことから波多野兄弟は降伏を決意します。

ところが信長は波多野家の存続を許すどころか波多野兄弟を処刑してしまいました。当然人質であったお牧の方は処刑されました。
この出来事が本能寺の変が起こった原因の一つであるという説があります。この説は、経営学的にはどのように分析できるでしょうか。

リーダーシップに関する有名な理論に、PM理論というものがあります。PM理論とは、リーダーシッはがPPerformance「目標達成能力」)とMmaintenance「集団維持能力」)の2つの能力要素で構成されるという考え方です。PM理論では、リーダーシップについて、PMに着目して以下の4類型に分類します。

① PM
  目標達成能力と集団をまとめる能力のいずれも有する理想的なリーダー。

② Pm
  目標達成能力があるものの、集団をまとめる力が弱い。すなわち、成果はあげるが人望がないタイプのリーダー。

③ pM
  集団をまとめる力はあるものの、目標達成能力が低い。すなわち、人望はあるが、仕事は今ひとつというリーダー。

④ pm
  成果をあげる力と集団をまとめる力のいずれも弱く、適性を疑われるリーダー。

戦国武将のリーダーシップを経営学視点で考える

信長が波多野兄弟を処刑したことは、目標達成という点からすれば決して誤りとはいえないでしょう。なぜならば、波多野兄弟は4年にわたり抵抗を続けてきた宿敵ともいうべき存在であり、仮に波多野家の存続を許せば今後再び信長に反抗するおそれも十分あり得たからです。その意味では、信長のP機能については、高いといえます。

他方で、M機能についてはどうでしょうか。波多野兄弟を処刑すれば、重臣である光秀の母親も処刑されてしまうのですから、明智光秀は信長に対して大いに失望するばかりか、他の家臣も信長に対しても不信感を抱きかねません。信長がPm型のリーダーであることをうかがわせる逸話はこのほかにもあり、信長のM機能は低かったと考えられます。

本能寺の変は信長がPm型のリーダーであったことが原因の一つであったと分析することができ、Pだけが強いリーダーの危うさを知ることができます。

経営学の理論は事案を分析する道具

本稿では、経営学のPM理論を信長にあてはめて分析しました。経営学の理論は単なる「お勉強」で役に立たないと考えている方もいるかもしれません。しかし実際の事例を経営学の理論で分析してみることができます。経営学の理論を具体的な事案を分析するための道具として活用すれば、自社の組織の問題点が明らかになるかもしれません。

武田 宗久

武田 宗久

PROFILE

ライター,コンサルタント
1978年生まれ,大阪府出身。京都大学大学院法学研究科修了
2011年弁護士登録(大阪弁護士会所属)
2020年中小企業診断士登録

債権回収や離婚等の一般民事事件を担当する一方,大阪の中小企業や自治体を元気にするため,法務・労務を中心とした支援に取り組む。著書に『改正民法対応!自治体職員のためのすぐに使える契約書式解説集』(令和2年,第一法規,共著)など。

お問い合わせ先
株式会社プロデューサー・ハウス
Web:http://producer-house.co.jp/
Mail:info@producer-house.co.jp

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